伴性エモーション


ナイトウォーカー

久しぶりに息が切れるほど走って遠くまで来た。
手には学校から帰ってきたときのままの鞄。幸い携帯や財布が入っているので困ることはない。
ふと後ろを振り返ると、今来た道とその後ろには、静かで見慣れた閑静な住宅街がひろがっている。
すっかり見えなくなった、帰る場所だったところをキッと睨み付けて、今朝夫は歩き始めた。


健輔と喧嘩をした。
喧嘩というか、些細な口論というか。
人より触れられたくない琴線の数が多いのか何なのか、毎日寝食を共にするような間柄になっても健輔とはたまにこうして喧嘩をする。
普段は面倒見の良い、絵に描いたような過保護な兄のように振る舞い今朝夫を甘やかす健輔だが、ひとたび彼が今朝夫の琴線に触れると、もうその目には憎らしいちみ毛野郎としか映らなくなる。
それでも健輔が大人なのか、それともただ単に面倒くさがっているのかはわからないが、謝ってくるのはいつも健輔だった。
すまん、ごめんな、と眉を下げて目を合わせて言うのだ。
ふと柄にもなく「こっちこそ」なんて言葉を言ってしまいそうになったこともある。ほんの一回だけ。
健輔が今朝夫のペースに嵌ってしまっているのか、それとも今朝夫が健輔に乗せられているのか。それは時と場合によるのかもしれない。
とにかく、この二人の喧嘩は三か月に一度くらいのよくある行事だった。そのはずだった。

今回、健輔が今朝夫以上に怒っていること以外を除いては。



頭に血が上っていたせいで、もう何という言葉を投げつけてきたのかは覚えていない。
多分ありきたりな煽り文句は全てぶちまけて来たと思う。
そんなことを考えながら、今朝夫は苛々を隠そうともせず、鞄を乱暴に背負い直して地下鉄の駅の階段を下る。
ここは地下鉄沿線、終点の駅。逆に言えば、ここからならどこへだって行ける。
丁度駅のホームに電車が風と共に入ってきた。今朝夫は歩みを止めずそのまま電車に乗り込む。
俗にいう家出というやつだ。いいじゃないか、これであの母親みたいに口煩い男とはおさらばだ。どこへ行って何をして、それこそ誰と床を共にしたって自由。
『どこ行っとったん』『晩飯いらんの?せやったら先に言うてや』なんて小言が脳裏で再生されるが、すぐに耳にイヤホンを突っ込んで音楽をかき鳴らし、無視をした。
どこ行きの電車で、どこに止る電車なのかはあまりよく覚えていない。
何でもいいしどこでもよかった。ここをすぐにでも離れたかった。
あいつが謝って探して追ってきても手の届かないようなところに行こうと思った。
ふと電車のドアを見る。そのとき丁度、開いていたドアが閉まり、電車は動き出す。
誰かが誰かを追いかけて、電車に駆け込んでくることを期待していたとか、そんなわけはない。今朝夫は安堵も落胆も感じることのない自分にそう言い聞かせ、目を閉じた。



今朝夫はその後、大きな駅で一度電車を降りた。
晩御飯の時間だ。腹が減ったので近くにあったファーストフード店に立ち寄る。
そこのハンバーガーの味は、ここ最近ずっと健輔の手料理で腹を満たしていた今朝夫には懐かしく感じられた。
自分と同じくらいの高校生たちが、同じように制服でテーブルを挟んでたむろっている。
一人が嫌なわけでもないが、少々目障りだった。
いつまで一人で居ることになるのかわからなかったので、ハンバーガーを二個買って、鞄に突っ込んで店を出る。
そこから何人か、男にも女にも声を掛けられたが、付いて行く気が起きず適当にあしらった。しつこい輩は、すこし強めに突き放した。
後から、今日の宿の一つでも提供してもらえるならついていけばよかった、と後悔した。

ついこの間機種変した、黒いスマートフォンがしきりに細かい振動で電話の着信を知らせる。
誰からの電話かなんて、手に取らなくてもわかっていた。だから出なかった。出ようともしなかった。
駅のショッピング施設をふらふら歩いて何気なく家電コーナーを横切ったとき、自分が見ようとしていた番組が展示品のテレビに映し出され、ちょうど終わるところなのが目に入る。
もうそんな時間か、なんてのんきに考えてテレビに背を向けた。
果たして数日前の自分は、これ見るから録画しといて、と彼に伝えてあっただろうか、などと考えて。




そうして外をふらふらと歩き回り、気付けばもう外は真っ暗で静まり返っていた。
また何を考えるわけでもなく、さっき降りた地下鉄の駅に戻り、同じように先程登ってきた階段を下った。
思えばあの部屋を飛び出してから、一度か自分のことを自分の目で見ていただろうか。
まだ着信を知らせるバイブレーションが止まらない携帯の、明かりの灯っていない黒く暗い画面に、今朝夫は視線を落とした。
液晶画面に映った自分の右目がころりと動く。きっと、眼帯の奥に隠した目も、同じように動いている。
そこに映る自分の顔は、ひどく不機嫌そうな顔をしていた。
まあ当たり前か、と、部屋を飛び出してから鳴りやまない着信を避けるように手にすらしていなかった携帯の電源ボタンを押す。
ぽっと浮かんできたのは、見たことも無いような数字にまで積り積もった不在着信の数。

「……うわ、電池ねえ」

あれだけひっきりなしに電話がかかってきていたせいで、部屋を出る前までは半分以上あったスマートフォンのバッテリーはもう3割にも満たなかった。
ぽそりとつぶやいた自分の声は、まるで聞き覚えのない声のように微かに響いて、すぐに消えていく。
鞄の中に、充電器はない。あの部屋に置き去りだ。
飛び出してきた直前は、財布と携帯があれば何でもできると思っていたが、どうやらそんなことはなかったらしい。
今朝夫に考える暇も与えないうちに、ホームには終電がじきにやってくることを告げるアナウンスが、気だるげに流れ始めた。
あそこは終点駅。逆に言えば、どこからだってあそこには行ける。
丁度駅のホームに電車が風と共に入ってきた。今朝夫は歩みを止めずそのまま電車に乗り込む。
俗にいう家出というやつだったのかもしれない。おかしいな、これであの母親みたいに口煩い男とはおさらばだったはずだった。どこへ行って何をして、それこそ誰と床を共にしたって自由だったはずだった。
『勝手に出て行ったのはそっちやろ』『何や、今更のこのこ帰って来よって』なんて小言が脳裏で再生されるが、それを無視するためにイヤホンを取りだすのも面倒だった。



何も躊躇うこともなく背を向けたはずの駅と街に再び降り立つ。
辺りは真っ暗だ。閑静な住宅街は静かに、もう寝静まっている。
帰るはずの場所は、ここからは見えない。単純な疲労感と、心がもやもやするせいで重たい足を動かして、帰り慣れた、今日の夕方舌打ち交じりで駆け抜けてきた道を歩く。
自分の足跡しか響かない道が、今朝夫にはひどく閉鎖的に感じられた。
まるで、もう帰ってくるなと。今更来て何の用だと、夜の冷たい空気が口々に騒いでいるようで。
「携帯が」「電池がないから」なんて、本当のことを言っているのに言い訳めいた響きに聞こえてしまうだろう。嫌になる。
いや、本当に言い訳なのかもしれない。
でも言い訳なんか、あいつ相手にしたくない、してやるものか。
いつもより長く感じられる道のりを経て、帰る場所のある、それなりに大きなマンションのたくさんの窓は、そのうち半分ほど電気が消えていた。
帰っても寝てるかもな、なんて、意外にけろっと考えつつ、マンションの中に入り階段を上がっていく。
御子柴、の名前の書いた部屋を目指し階段をのらくらと登り廊下を歩いていると、ふと、一室から人影が出てくる。

「……あ」

自分のものではないような微かな頼りない声。
今日の半日、喧嘩で怒鳴り散らして以来出していないに等しい声。
ぽかんとした今朝夫の前に現れたのは、健輔だった。
健輔と目が合って、驚いて一度歩を止めたが、視線を外して、再び歩きはじめる。
言葉は出てこなかった。何しろ今日はろくに声も、会話もしていない。当然だ。喉がまだ、発声の準備はできていないと言っている。仕方ないのだ。
さっきまで考えていたはずの言い訳めいた言葉すら、声にならなかった。

健輔と、その部屋の前まで来たところで、急に襲う、ぐっと引き寄せられる感覚に今朝夫は身構える。
ふわ、という衣擦れの音と共に、じんわり暖かい体温が今朝夫の身を包んだ。
何を恰好つけているんだこいつは、と思うが、声が出ないので仕方がない。

「おかえり。外、寒かったやろなあ」

背中や腕を、制服越しにするりと撫でる、暖かい健輔の手が、まるで本当に心配しているように遠慮がちで、優しく感じられて、こっちが不安になる。
天邪鬼な自分は素直にそれで喜べない、喜んでなんてやらないことをわかっているくせにそれでもこうして優しくするのはこいつの悪い癖だ。嬉しがるとでも思っているんだろうか。
急に冷静に、途端にいつもの調子を取り戻してきた頭で考える。
今朝夫は大人しく、その腕の中で小さくこくんと頷くと、すぐに健輔を押しのけて部屋の中にいつものようにずんずん入ってリビングを目指す。
コンセントに刺したままの充電器をしゃがんで手に取り、今にもぶつりと電池の切れそうな危うい携帯電話を繋ぐ。
暖かい、健輔の生活空間に浮遊する空気を肺にすうっと吸い込んで、ふと周りを見渡す。
半日前にここを飛び出したまま、片づけも何もない。ガラスのローテーブルには汚れた皿がそのまま取り残されている。
お前、普段俺がこんなんしたら怒るくせに。はよ持って来んと洗えんやろ、とか言うくせに。
膝を伸ばして立ち上がり、後ろを振り返る。

「けんけん、俺の飯、ある?」

いつの間にかすぐそこに立っていた健輔が、眉を下げて少し笑いながら、おう、と短く返事を返してくる。



鞄の中で、ハンバーガーはとっくにぺちゃんこに潰れているのだ。




2013.9/8

初健今朝!
『ナイトウォーカー』(村人Pさん)をイメージソングにさせてもらってます。